昭和五十四年四月九日 朝の御理解
御神訓
一、神は声もなし形も見えず、疑えば限り無し。恐るべし、疑いを 去れよ。
昨晩遅うに久留米の高田さんの甥ごさん 甲子園 投手 御礼参拝がございました。お母さんと本人それから高田さんの三人でお願いの時には参って来ませんでしたまあ云うならば負けましたわけですね。けどまあ大変よい試合をさせて頂きました。と云うてそのお礼のお届けでした。私はほんとに負けてお礼に出て来るのは珍しいねと云うた事でしたけれどもね、人間と云うものは自分の思うようになったらおかげ、思うようにならなかったらおかげじゃない。形には見えない又おかげの姿も今度の場合は形に見えなかった。まあ信心ならよい修行さして頂いたと云う事だろうけれども、お礼に出てよかったねとほんとにその事を伝えた時に池尻の池と云う字のね、也と云う字のねさんずいの也、也と云う字のこうゴウと勢いよく跳ね上げるところを頂いたんです。だから夏の甲子園でございますからと云うことでございましたけれどもです、ほんとに自分の思う様にならなかった。ほんとに残念至極負けたと、ね、それで神様へお礼に出て来ると云うことはしかも本人が出てきた、お願いには来なかったけれどもほんとに珍しいなと云うてまあ喜んでまお礼を申さして頂いたたことでした。そしたら也と云う字、也と云うのはもうこれで極まったと云うわけの時に頂くんですよね。そのこちらのぐっとこう跳ね上げるところを勢いよく上へパァッと跳ね上げる。私はそういう信心からですね、神様をいよいよ信じれれる働き、成程と神様から、を合点が出来れる働きが生まれて来ると思うです。ね、しかも信心があって日頃教えを頂いて居るならね、まあ神様の御都合に違いはないとお礼を申し上げますけれども、もう初めて一回お参りをしただけ、しかも本人じゃないその家族の方が高田さんに導かれてお参って来ている、一回ね。ところが本人がそのお礼に出てきた。負けたお礼と云うのではなくてまあよい試合をさせて頂いたとこう云うのである。ね、神様にお願いして御神米を頂いてちゃんと行ったけれども負けた。もうそこには神も仏もあるものかとこう大体云うところからですね、疑えば限りなし、いわゆる神様を信ずることが出来ないで終わらんならんと云うことにもなる訳です。
今ここへ出らして頂いたらここに紙切れが置いて有る。夕べ遅うに綾部さんから電話が掛かったと云うのである。「壁村史郎当選御礼申し上げて下さいとのこと」と云うことでした。日田の長野さんのご兄弟です。書き送られたから先日福岡の高橋さんの所へ行くときに丁度綾部さんと車が御一緒でしたから、もう今度の事はもうとにかくお蔭頂かなきゃでけません。けれどもどんなにそのまあ計算をしてみてもです二千票はどうしてもこちらが少ないと云うま公算であった。はいよいよおかげ頂かんならんねと、そりゃ熱心にもう壁村さん御一家で毎日朝の御祈念に参って見えましたし、先日からは御本人が綾部さん初め六名か七名かで家族の方達でお参りになりました。丁度その時に応接間で晩遅うでしたから応接間でお取次さして頂きましたが丁度花にあの白い花あれは何と云うですかね、あの花のお知らせを頂きますとあれは米粒じゃろう白い花が一杯こうやって咲いとる何と云う花だった、それにねまん中にカーネーションが真っ赤なカーネーションが二つ二本こう挿してある、それを頂きました。それでねこれはもしあの白い花ばっかりであったら けどまん中に真っ赤なカーネーションが二本入っとる。真っ赤と云うことは熱情、信心の熱情と云うことでもあろうし赤き心と云うから真心と云うことなんだ。ま一心にお縋りなさりゃいわゆるままになると云うおかげだと云うてお取次さして頂いたことでございました。そしたら綾部さんのそんとき後からの話ですもん、あの晩家族で皆お参りになった時に姉さんになる方でしょうか、あの今日私は応接間で親先生からあの花の御理解を頂いてびっくりしたとこう云われる。と、云うのは私は昨夜ねあの白い花のお夢を頂いてそれがパアッと散って仕舞ったところを頂いた。ね、もう云うならば計算の上でいくとどうしても二千票はこちらが分が悪いと云うことになっておったけれども、大体は散る運命にあったんだけれどもその御兄弟が頂いて居られる。それで今日親先生から応接間であの花の御理解を頂いた時にびっくりしたと云うお話があったそうです。散る運命にあったんだけれども真っ赤な一生懸命の御信心同時にはぁこれが壁村さんの赤き心であろうかと思われる信心がすぐその後に現れて居りました。もうほんとに神様はこの赤い心いわゆる真心、ね、熱情これには神様は弱いお方ですね確かに。弱いというのはなんだけど、もうこれなら神様が聞いて下さるんです。ね、そしてなら昨夜のこれはま当選と云うことでのお礼のお届けでございました。ね、神様の云うならば働きを信ずる。云うならば右か左かは分かりません、時には分かりませんけれどもね、成程神様の一言と云うものはそれを信じて願うならばおかげになると云うことが分かって来る。そういう信心がね、例えば負けてもお礼に出て来ると云う信心。神の一言と云うものを丁重に、真心だよ、ね、赤い心だよと、熱情だよとそこに熱情が掛けられる、真が表される。成程この神様は真を以ってすればおかげが受けられると云うことが分かる。ね、
お互い只自分の我情自分の我欲と云うことだけが満たされると云うことだけを信心とし、おかげとして居ったんでは私は何時まで経ってもね自分の思うごとばっかりなればいよいよ信じるでしょうけれどもね、いわゆる我情我欲で思うたり願ったりしたことがおかげを受けたり受けなかったりそこから云うならば半信半疑的なね、神様もそれがそうならにゃおかげにならんと云った様なね、そんな我情我欲でもです例えばその負けてもお礼に出て来るその真心そういう信心が私は繰り返されて行かなければおかげにほんとに神様を信じて疑われない働きと云うものが起こっても来ないしそれを身につける事が出来ない。ね、疑えば限りなしである。ね、だから信ずれば又限り無しのおかげに繋がるんです。為にはどうしてもそこに我情があってはいかん、我欲があってはいかん。ね、自分の思う様になった事だけがおかげではない。
私は今日御神前で或人が粘土をね、こうこねた粘土です、それをこうやってもて遊んで居ると云う様な感じでお知らせを頂いた。もうとにかく合楽理念は泥の信心に極まったと、ね、と云うてもその泥の信心に極まった、ね、と簡単に容易うこうまあ表現されますけどもその内容たるやであります。
昨日湯川先生のおかげを受けられた云うならその基と云うのは確かに神様が御主人なら人間はその公人だと、はあそげな風に思やぁいいですねと云やぁ簡単ですけれどもそお内容たるや、ね、この内容には八つの内容が有るんだと云う話を湯川先生から頂きましたよね。で、昨日研修の時でしたけども末永先生がその八つの願いと云うのを控えておって知っておりましたから聞かせて頂きましたけれども、ね、結局は親に孝行、先祖を大切に、借金の断わりのこの三つがやっぱ一番芯の様でした。だからそこだけ私は覚えとる。ね、借金の断わりと云うことがどんなに難しい事か、どんなに実意が要る事か。もう親先祖を大事にせずには居られないと云うその心情が云うなら大阪の信心の芯でもあった様にです、ね、玉水の信心の芯でもあった様に合楽理念の芯はやはり親孝行が根本だと云われるんですから。どんなに合楽理念を覚えても只我情我欲の為にです合楽理念をマスターして合楽理念の行者としてと云うてもですそういう芯がいわば止むに止まれないものに育って来なければです、ね、借金の断わりには、と云うことは借金の断わりだけの事じゃないです。ここはこうしたが本当だと云うことをやってのけると云うことです。それはもう辛うて死ぬほどに辛いことなんですけれども、借金の断わりに行くと云うことは。ね、何回も何回も嘘になったらこりゃ私も体験者ですから一番それを実感として分かっている。ね、はぁこげな時に例えば僅かばかりの借金で一家心中する時だろうかと思う様にやはり辛いもんだけれどもね、神様はそこを実意を貫かせて下さった。ね、だからこれは借金の断わりと云う事だけじゃない。こうする事が本当だと云うことを貫くと云う事なんです。辛かっても苦しかってもね、そういう内容があっての私は云うなら泥の信心でなからなければならない。ね、そういう芯がなくて泥の信心、泥の信心、合楽理念、合楽理念と云うて居るのは丁度泥ですね、粘土です、その粘土をこうやってもて遊んどるようなものじゃないでしょうか。こりゃ改めて一つ分からせて頂かなきゃならんことだと思わせて頂きましたら、今日の御神訓に依ってのみ教えをこう頂きますとです、ね、段々云うならば、ね、自分の思うようになった我情が満たされたと云うことが信心のおかげであるように思うて居ったら何時まで経っても神様を疑やせんばってん信じもきらんと云う半信半疑なものしかそこには生まれて来ない。だからおかげが半分と云うことになる。絶対と云う様なおかげの世界に何時まで経っても住むことが出来ない。とても私共がね、信心に依って云うならば我情を我情我欲を離れてとこう仰るが、ね、我情があります我欲がありますけれどもね、そこの改まりに焦点を置いて泥の信心であり合楽理念である。そこから神様をどんな場合であっても信じれれる、いやそこにね、どんな場合であってもおかげと感じさせて頂かなければ居られない働きが起こって来ると云うことである。ね、そしていよいよ疑えば限りなしであり信じれば又限りないのおかげを、こりゃ限りなくその信心を育てて行く。それが豊かなもの大きなものになって行けば行く程に豊かな大きなおかげにも繋がって来ると云うことでございます。
どうぞ一つあの疑えば限り無し、疑いを去れよと、ね、だから疑いを去らせて頂くところの云うならおかげ、ね、それに私共が願いというものにはね、一つの熱情が掛けられなければならない。同時に真を表して行く信心にならなければならない。
成程真だ、熱情を掛ければおかげになると確信が出来れる生き方。ね、そして真が足りなかったなあ、熱情を欠けて居ったと云うことを気付かせて頂いていよいよ信じて限りないいわゆる確信の信心が出来る。ね、そこに云うなら安心のおかげ、ね、云うならば確信の徳と申しましょうかお徳を受けて行くことが出来るんです。も一つそりゃあすっきりしたものではないかも知れませんよね、試合をして負けたと云うのですからね、けれどもやはりお礼に参拝をして来るというね、そういいうところから神様を信ずる力とか働きとか云うものはその向こうに投げた石が跳ね上げられた様な働きが起こって来ると思うんですよね。どうぞ。